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インタビュー&コラム

■クリエイターインタビュー

是枝裕和 監督

監督はセッター
役者のいいところを生かす方法を考える仕事

映画『万引き家族』カンヌ国際映画祭でパルムドール賞を授賞した是枝監督。
監督の映画制作の根っこにはこんなエピソードが眠っていた。

 

監督はセッター。
役者のいいところを生かす方法を考える仕事

koreeda

 

父親を反面教師にして、優等生を貫いた少年時代

是枝裕和監督の2作目の長編映画『ワンダフルライフ』(99)では、登場人物が最初の記憶について話をする場面がある。

監督の最初の記憶は「親父の膝の上でテレビを観ていたこと。たぶん、東京オリンピックだと思うけれど。とすると当時2歳なんだよね。親父の膝の感触と、ヒゲがジョリジョリしていたことを覚えています」

生まれは練馬区。9歳のときに清瀬市に引っ越した。この記憶から父親と仲が良かったのかと思いきや、小学校に入学する頃から仲は芳しくなくなっていたという。

「父親がいつまでも反抗期みたいな人だったから、母のためにも僕は真面目に生きていこうと子ども心に思っていて。高校生までは学級委員をやるような優等生でしたよ(笑)」

『DISTANCE』(01)で〝父親不在”の時代に生きる人々のことを描いていたのは、子ども時代の思いからだったのだろうか。

「それほど個人的な理由ではなくて、父権の不在っていうのは僕らの世代には一番大きなテーマだったんですよ。オウム真理教を題材にしていますが、麻原という人物が強い父権的な存在で、それに引っぱられた人たちがいたという解釈をしていました。でも今思えば、個人的な思いも入っていたのかもしれないですね。以降も僕はあんまり強い父親をリアルに描けないんですよ。だいたい女性が強くて男が弱いという関係しか描けない。『歩いても 歩いても』(08)もそうだし、新作『奇跡』も(笑)」

 

テレビドラマ志望だったが、ドキュメンタリーの世界へ

父を反面教師にした是枝少年は、人の期待に応えようと心がけ、いつも周囲に気を配りながら生活していた。中高の部活はバレー部で、ポジションはセッター。

「バレーをやった理由は、当時、ミュンヘンオリンピック(72)で日本男子バレーが活躍していて、ミーハー感覚からでしたね。でも、監督をはじめたとき、監督ってセッターのような仕事だと思ったんです。アタッカーが役者だとすると、どういうトスを回したら、その人のいいところが生かせるかって考える仕事だから」

姉が二人いて本当は甘えっ子だったのに、外では気遣いの人として振る舞っていたところ、あるとき突如「人生は短い、やりたいことをやらなくては」と覚醒。文筆家になりたいと思うようになり、早稲田大学文学部に入学する。

「サークルの意味のない上下関係が苦手だったので、大学時代は一人で映画を見たり、文章を書いたりしていました。世代的にテレビッ子なんです。倉本聰さん、山田太一さん、向田邦子さんのシナリオ集なんかも読んでいましたね。就職活動ではテレビ局も受けました」

残念ながらテレビ局は落ちて、入社したのは制作会社テレビマンユニオン。ここは非常に優れた映像作品を世に送り出している会社で、監督はディレクターとしての修行を積むことになる。

「ドラマが作りたかったのに、最初の3年は、『遠くへ行きたい』『世界ふしぎ発見!』『アメリカ横断ウルトラクイズ』などのバラエティー番組のADをやりました。そこではあまりいい思い出はないですね(笑)。理不尽なことで怒鳴られていましたから。なので、僕の現場では怒らず楽しく進行することを心がけています。怒ると萎縮していいアイデアも出ません。リラックスした中でこそ、思いがけないアイデアが沸いてくると僕は思っているんです」

念願だったドラマ演出は90年、ドラマダス『4月4日に生まれて』。

「4日で一時間の一話分を撮るという過酷な環境で、今の僕の力量ではドラマを撮れないと実感しました。その点、ドキュメンタリーは、スタッフも少人数で自由が利いたので、ここでしばらく自分を鍛えようと思ったのですが、いざやってみたらおもしろくて」

最初のドキュメンタリー『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(91)がギャラクシー賞優秀作品賞を受賞。以後、多くのドキュメンタリーを撮り、95年にはついに『幻の光』で映画監督デビューを果たす。本音を抑えて生活していた幼少期の体験からか、実在の事件の真実を掘り下げてきた経験からか、監督の映画は、人間を深く、いろいろな角度から見つめている。そこに浮かび上がってくるのは、一人では生きていけない人の心だったり、そういう人と人との関係性だ。その作品群は、日本だけでなく世界で高い評価を受けている。

 

是枝裕和監督をもっと知るための12の質問!

Q1
監督になっていなかったら?
高校の国語の先生。

Q2
尊敬している監督は?
ケン・ローチ、イ・チャンドン、ホウ・シャオシェン。

Q4
好きな作家と作品は?
レイモンド・カーヴァー「大聖堂」、ジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」、福岡伸一「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」

Q3
忘れられない映像作品は?
『マダムX』という古いハリウッド映画。子どもの頃、母親とテレビで見て、実の子どものことを思う
母親の行動に号泣しました。

Q5
印象に残っているロケ地は?
『ワンダフルライフ』のメイン舞台になった月島の水産試験場の跡地。建物が印象に残っていますね。

Q6
アイデアの生まれる場所は?
飛行機の中、新幹線の中。移動しているとき。

Q7
普段の生活に欠かせないものは?
手帳。アイデアを思いついたときに書き込む手帳を必ず持っています。

Q8
ドキュメンタリーを撮った中で印象的だった人物は?
最初のドキュメンタリーでインタビューをした、水俣病問題で自殺された当時の環境庁の高級官僚の奥さん。かなりハードルが高かったですが、いまだに年賀状のやりとりをしたり、僕の映画を見ていただいたり、お付き合いが続いています。

Q9
趣味は?
映画が唯一の趣味でしたが、仕事になったのでなくなってしまいました。仕事と関係なく楽しいことと言えば、おいしいものを食べることです。

Q10
休みの日の過ごし方は?
寝てます。

Q11
意外と知られていない監督の秘密を教えてください。
外国に行くたびに、フランケンシュタインのフィギュアを買っています。

Q12
家族ができてから変わったことがありますか。
結婚したのが8年前、子どもが生まれたのが3年前。子どもが生まれてからは早起きになりました。というか、二度寝をする習慣がつきました(笑)。4時くらいに寝て7時にいったん子どもに起こされて、もう一度寝ています。

【PROFILE】 是枝裕和 監督

1962
6月6日、姉2人の末っ子として、東京都に生まれる。

小~中学校時代
映画好きの母親に連れられ、池袋の映画館でさまざまな映画を鑑賞。母と息子の葛藤を描いた作品『マダムX』を観て、子どもながらに号泣する。学校では、スポーツ万能で、学級委員も務める優等生として過ごす。部活はバレー部に所属し、セッターを担当。

高校~大学時代
東京都立武蔵高校に入学し、引き続きバレー部に所属。小説で食べていきたいと考え、早稲田大学第一文学部に入学。山田太一や倉本聰、向田邦子などのシナリオを読み始め、次第に映像に興味を持つように。映画サークルに入るといったような集団行動には全く向かず、1人でシナリオを読んだり、映画館へ行ったりという日々を過ごす。

1987
大学卒業後、テレビマンユニオン入社。『しかし…福祉切り捨ての時代に』(91)『もう一つの教育~伊那小学校春組の記録~』(91)などドキュメンタリー番組を手がける。

1995
『幻の光』で映画監督としてデビュー。第52回ヴェネツィア国際映画祭で金のオゼッラ賞などを受賞。その後、世界30カ国、全米200館での公開と異例のヒット作となった映画『ワンダフルライフ』(99)、『DISTANCE』(01)を発表する一方で、「日産ニューセレナ」や「サントリーなっちゃん」などのCMやCoccoの「水鏡」(00)等、ミュージックビデオも手掛けるように。

2004
『誰も知らない』を発表。主演の柳楽優弥がカンヌ国際映画祭にて映画祭史上最年少の最優秀主演男優賞を受賞したほか、第47回ブルーリボン賞作品賞・監督賞を受賞し大きな話題となった。

2006
『花よりもなほ』(06)で、“仇討ち”をテーマにした初の時代劇に挑戦。08年には自身の体験をもとにしたホームドラマ『歩いても歩いても』を発表、第51回ブルーリボン賞監督賞を受賞。同年、初のドキュメンタリー映画『大丈夫であるように-Cocco終わらない旅-』も公開。

2009
オリジナルストーリーにこだわってきたなかで、「この原作だけは例外」と業田良家原作の『空気人形』を撮影。人形が心を持つというラブ・ファンタジーを描いた。第62回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で上映される。

2011
2年ぶりとなる新作『奇跡』が6月4日に九州で先行公開、6月11日に全国公開。

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